こんにちは。
プラザセレクトグループ代表の三谷浩之です。

私が経営の中で思い描いている理想が「結果的に」です。
どういうことかというと、例えば会社でも個人でも仕事をしていたら今月の目標や今週の目標などがあるでしょう。私も経営者として会社の売上や利益は追いかけます。でもその数字自体を追いかけるのではなくて、本質的な部分を目指すことで「結果的」にその目標数字が達成されているということが理想だと思っています。

私の感覚として数字を追いかける日々を長年やっていると疲れます。「これはいつまで続くのだ?」「なんのためにやっているんだ?」とふと思ったことも過去何度かあります。数字を伸ばす、それが楽しい時期は確かにあります。しかし一方で数値目標は達成してもまた次の数値目標が設定され新たなレースが始まります。そうやって終わりのないレースが続くことに無意識に疲れを感じるのだと思います。

たぶん忍耐強く一生懸命がんばる人ほど、次のレースもまたがんばって結果を出し続けるでしょう。しかし私は思います。この状態の「がんばり」はちょっと角度がずれているのではないかと。

今からの話は理想論なので現実が100%そうなるとは思っていません。社会の一員として大人としてがんばることも必要です。ただそのがんばりの割合というか、方向というか、そういう点に着目してもいいのではないかと思うのです。

この「角度がずれているがんばり」は多くの場合、狙うべきゴールがいつの間にかずれた状態です。たぶん多くの人は社会に出た第一歩は「よし、がんばるぞ。成長してお客様に喜んでもらって、会社にも貢献してみんなから必要とされたいな」という「~したい!」という自分の中から湧き出る想いがあったと思います。しかし日々の中でだんだん「今月受注しないと」「あれやっておかないと怒られる」というような「~しなければならない」に多く支配されているのではないかと思います。

「したい」100%の想いがいつのまにか「しなければならない」に浸食されその割合が増幅。いつしか「~したい」の割合が完全に薄れてしまいます。責任や期待や自尊心やとなんやかんや目に見えない重みが増えてきて、わかっていてもだんだん「~しなければならない」に飲まれます。

それなんのためにやっているの?誰のためにがんばってるの?
こんなのでしたっけ?私たちの最初の気持ち??
違いますよね。「~したい!」だったはずです。

これを健全な状態にするために、冒頭の「結果的に」を私は理想としています。

「お客様に喜んでもらいたいと思ってやっていたら、結果的に数字が伸びた」
「仲間に喜んでもらおうと思ってやっていたら、結果的にチームの数字が達成できた」
「あなたがいてくれてよかったと思ってもらえるように生きていたら、結果的に多くの仕事が舞い込んできた」

社会生活の中で完全に払拭することは無理と承知していながらも、時に根っこの部分に目を向ける時間は必要と思います。忙しい毎日の中でもたまにはそんな時間を意図的に取ることは必要です。自分から湧き出る何かを心にとどめ自分の「~したい!」の割合を増やしてみてはどうでしょう?

我慢と我儘

どちらも重要。
これらをいいバランスで生きられると良い人生でしょうね。
そして結果的に良い人生だったなぁと最後に思えることは幸せだと思います。